その1.現代版大江戸 編


 その日も、二人は呪詛払いにやってきていた。
 今回の呪詛の被害者は、可哀想に、まだ三歳の子供だった。
 自分が呪詛に殺されかけていることなど、まだ理解できない年頃である。結界の中で大人しくしていろ、と言われても、そんなことができるはずがない。
 まして、自分が何かおかしいことはわかっているらしく、自分に近づく見知らない大人には、異常なくらいに敏感になってしまっていた。今、その子が気を許している相手は、母親のみである。父親でさえ嫌がるのだから、重症だ。
 とはいえ、結界の中で大人しくしてもらわないと困る上に、母親も結界内にいることはできないので、何か手を考えなければいけないのだが。
 しばらく悩んで、志之武は一計を案じた。
「せいさん。呪詛払いの祝詞、唱えられるよね?」
「簡単なのなら。……ん? 俺がやるのか?」
「僕が結界の中に入ってあの子を大人しくさせておくから。頼んで良い? 丸一日、苦労かけちゃうと思うけど」
「は? 丸一日?」
 何の話だ?と征士は首を傾げた。祝詞を唱えるということは、しかも、自分に任せるということは、あとほんの数分で仕事は片付くはずなのに。だが、征士が不思議そうにしているのに、珍しく志之武はそれ以上の説明をしなかった。口の中で何かを唱えている。
「蛟。結界、引き継いで」
『はい』
 呼ばれて登場したしわがれ声の青年が、かしこまって指令を受ける。突然現れたせいで、事の成り行きを見守っている被害者の家族に悲鳴を上げさせたが、彼ら三人とも、特に気にした素振りも見えない。
「さすがの僕も、三歳児の姿じゃ何もできないから、後のことはよろしく」
「……三歳児ぃ?」
 わけのわからない言葉に唖然として問い返す征士に笑って見せて、志之武はそこに座ったまま、手を合わせて目を閉じ。
「我身変姿。三歳児になぁれ」
 その時の、その場に居合わせた全員の視線は、志之武に釘付けだった。そして、表情も全員一緒。口を開けたまま、呆けてしまっている。
 しゅるるるる。と音を立て、みるみるうちに身体が縮んでいった。服までは縮めることができなくて、大人物の服に埋もれてしまう。
 それは、確かに三歳ほどの子供の姿だった。
 変身が落ち着いたのだろう。しばらくじっとしていた志之武は、そっと目を開け、周りを見回して、満足そうに笑った。自分のものであるはずのだぶだぶのシャツを身体に巻きつけて、そこから這い出してくると、ぴょん、と飛び上がった。
「やったぁ。大成功ぉ」
 きゃっきゃっと笑って、何度か飛び跳ねて、たたたっと走ると、征士にベタンと抱きついた。
 大人物のシャツが、志之武の身体を、膝下まで覆っている。夏用の半そでシャツで、腕は手元まで覆われ、袖口からわき腹の腰辺りまで見えている。薄手のシャツなので、身体の線が微妙に透けて見えた。
「せぇさん。呪詛払い、よろしくねぇ」
 ちゃんと、覚えてはいるらしい。大人の時と同じ言い回しで、ただし、舌っ足らずな口調で、そんな風に甘えるように言って見せる。それから、優しい顔で見守る蛟に目を向け、にこっと笑った。
 それだけして、三歳児の志之武は、自分で作った結界の中に駆け込んでいく。一瞬だけ、パチン、と結界面が音を立てたが、その後は何事もなかったように落ち着きを取り戻す。
 初めて見る、同じ年頃の少年に、被害者の少年はビックリしたようだったが、お友達だと認識できたらしく、懐いてくるその子に対して、笑みを見せた。
 どうやら、志之武の一計は成功したらしい。
 志之武との遊びに夢中になっているおかげで、被害者の子は今までの苦労が嘘のように、結界の中でじっとしていてくれた。暴れまくっていたおかげで大きく取っていた結界の大きさが少しずつ縮まっていくのにも、二人とも気づいていないらしい。二人で積み木遊びに夢中になっている。
 やがて、本来の結界の大きさまで縮まった。これは、もともと呪詛払いの力を集中させるための増幅装置の役目を果たしている。できる限り小さくする必要があるのだ。
 蛟がタイミングを見計らって、征士に合図を送る。それを受け、志之武とコンビを組むようになってから覚えた呪詛払いの祝詞を、征士は朗々と唱え始めた。
「払い給い清め給え。これなる悪しき呪詛の払い給い清め給うこと願い奉り申す」
 その神式の祝詞を唱え終え、畳に頭がつくほどにぺったりと平伏した征士が顔を上げる。結界の消えたそこには、ちびっ子の志之武に抱かれて、被害者の少年が楽そうな顔で気を失っていた。


「で?」
 何かお礼を、と引き止めるのを断って、被害者の少年のものである服を借りて、三歳児になってしまった志之武の手を引いて早々に自宅に戻った征士は、志之武を膝に抱いたままソファに沈むと、その小さなつむじを見下ろした。声をかけられて、志之武が上を向く。
「なぁに?」
「だからなぁ、しのさん。そういうことは、やる前に言えって、いつも言ってるだろうが」
「……やぁ。せぇさん、怒っちゃやだぁ」
 三歳児な姿の志之武は、反応まで三歳児のもので、征士は途端に毒気を抜かれてしまった。はぁ、と大きくため息をつく。
 何しろ、丸一日苦労をかける、と事前に頼まれてしまったのだ。何をするかはわからなくとも、それを引き受けてしまったのは事実である。ため息一つで諦めるしかない。もともと、自分が惚れた相手はこういう奴なのだ。
 いい子いい子、と頭を撫でられて、俯いていた志之武が再び顔を上げた。頬に涙が流れた跡があって、泣いていたことがわかる。目も涙で潤んでいた。
 しかし、この子はこの年頃ですでに声を出さないで泣いていたのか。
 少し、胸が痛くなる征士である。
「せぇさん。もう怒ってない?」
「怒っても仕方がないさ。お前はこういう奴だもんな」
 う。そんな風に諦められて、志之武はまた悲しそうに眉をひそめ、黙り込んだ。今度は泣き出す代わりに、征士の胸にペタンと抱きつく。
「ごめんなさぁい」
「お。今日は素直だな」
「いつも素直だもん」
 口答えの早さが、やはり志之武らしい。征士はそんな反応に一瞬目を見開き、それから笑い出した。ちびっ子の志之武を抱き上げ、ぷくぷくの頬に頬擦りをする。
「たまには、こういうのも良いかもな」
「やだぁ。このカッコじゃ、せぇさんとエッチできないもん」
 ぷっと頬を膨らませて、普段の志之武なら恥ずかしがって言わないことを平気で口にする。それから、征士の首にぎゅっと抱きついた。
 征士はといえば、そんな股間直撃な熱烈な台詞に、驚いて声も出ない。これを普段の志之武の姿で言われたら、絶対に今頃ソファに押し倒している。
 さすがに、こんな小さい子にイケナイことはできないので、理性が自制をかけるのだが。
「ちびっ子しのさんとここにいても、特にやることもないしな。これじゃ喫茶店も開けないし、ちょうどいいや。しのさん、買い物に行こう」
「おかいもの? ……ぼくもいっしょでいいの?」
 え? 問い返されて、思わず征士はさらに聞き返してしまった。
 何しろ相手は三歳児である。まさか、その相手に遠慮して見せられるとは。わーい、と喜んで走り回ってもおかしくない年頃なのに。
 いったいどういう三歳児だったのか。想像ができてしまうだけに、再び胸が痛んで、志之武を哀れみをこめた目で見つめてしまった。
「良いんだよ。一緒に行こう。何でも、好きなもの、買ってあげるよ?」
「うぅん。いらなぁい。せぇさんといっしょなら、それだけで良いもん」
 抱きついた征士に、うりうりとおでこをこすり付けて、志之武は幸せそうに笑った。
 そんな健気な台詞を、例えばいつもの志之武に言われるのなら、いじらしくて可愛い、となるのだが、この三歳児に言われると、なんとも苦しくなってしまう。嘘のつけない年頃だ。その子が言う言葉は、つまり、遠慮などではなく、本気でそう思っているのだから。
 借り物の服に身を包む志之武は、しがみついた首からソファの上に降ろされて、自分でソファから飛び降りると、ぱたぱたっと走って南側の部屋へ入っていった。そちらの部屋は、雨の日は選択干し場になるくらいで、特に何も置いていない部屋なのだが。
 ガラ、とサッシを開ける音がしたのに、征士は慌てて志之武を追いかけていった。
 志之武は、何と、こちらの部屋に置いてあるパソコンデスクの椅子を引っ張り出して上り、洗濯物を取り込んでいたのだ。追いかけてきた征士に気づいて、両手いっぱいに抱えた洗濯物を差し出す。
「これから出かけたら、帰り夜になっちゃうでしょ?」
「おま……。危ないぞ。落ちたらどうするんだ。ほら、代わるから、降りろ」
 発想と行動は大人なまま、頑張ればできることは頑張ってしまう志之武に、征士は呆れるしかなかった。両脇に手を差し込んで抱き上げ、床に降ろす。はぁい、と大人しく返事をして、洗濯物の山の前にペタン、と座った。小さな手でもたもたと洗濯物をたたみだす。手がうまく動かないことにもどかしそうだったが、それでも頑張る志之武に、征士は仕方がなさそうに肩をすくめる。それから、外に出してあった洗濯物を全て部屋に入れて、片づけを手伝い始めた。
「よし、終わった。まだ、やることはあるか?」
「ん? ……んー。ないっ」
「じゃ、行くか」
「うんっ」
 大きく頷くと、首筋あたりで結った尻尾のような髪が、ふわんと宙を泳いだ。


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