
その1.現代版大江戸 編
それは、新郎の裏切りに端を発したものだった。
すぐ近くの信号機にのみその名を残す、神田明神下という土地に、不定期開店の喫茶店が誕生したのは、今からもう半年も前だ。
近所の有閑マダムたちの記憶を頼るなら、というべきか。この、しばらくテナント募集の張り紙があった区画に、テーブルと椅子とカウンターが登場するようになったのを誕生と数えるなら、半年、というべきなのかもしれない。
というのも、この店、看板もなければレジもなく、メニューもなかったのだ。
では、どうやってこの店がやってきたのかといえば、店のオーナーにもなっている二人の店員の客引きと、その常連客たちの口コミだった。
実を言えば、今までこの店は、商売としては成り立っていなかった。食品取り扱い業者としての登録もされてはおらず、売上金の計上もなく、それ以前に屋号すらなかったのである。つまり、近所のマダムたちと個人的なお茶会を開いていた、というわけだ。
それが、ここ十数日、工事業者が入り、テナントのリフォームが完了したことを受けて、ガラス張りの壁だった道路側がオープンカフェ風の蛇腹開き窓に変わり、看板ができ、食品取り扱い業者としての認定書も受け、正式にオープンの運びになった。
店の名は、『喫茶 江戸茶房』。茶葉に代表されるように、植物の葉を元にして飲料とする、総称して「お茶」と呼ばれる飲み物を中心に提供する、お茶専門の喫茶店である。コーヒー喫茶が多い中、珍しい趣向であるが、おそらくは店主の趣味であろう。
その、オープン当日。三十代後半と見える美女が花束とともにやってきた折、オーナーの片方、中村征士がその女性に、耳打ちしたことが、すべての発端となったわけである。
「実はですね、麟子さん」
「うん。なぁに? 征士くん」
「裏の神社の御祭神様が、俺たちの祝言の仲人をさせろって、最近せっつくんですよ」
「あら、祝言? 良いじゃない。挙げちゃいなさいよ。私も志之武くんの白無垢姿、見てみたいわ」
「やっぱ、しのさんは白無垢ですよね?」
「当然よ。……うふふ。いいわね、それ。どうせ、あれでしょ? 志之武くんが渋ってるんでしょう? だったら、土御門で設定しちゃうってのは、どう?」
「あれま、そんな大々的に」
「そのつもりで、私に話を振ったんでしょうに。征士くん、確信犯よ」
「いやぁ、そんなこともあるんですけどね」
そんなわけで、悪巧みの第一段階は完了した。もう一人の当事者である、新婦の意見は聞かれずじまいである。
それから約三ヶ月。
『喫茶 江戸茶房』の入り口に、本日貸切のカードが下げられていた。
中では、それぞれに正装した老若男女が約二十名、忙しく動き回っている。本日の主役を迎えるための準備で大忙しなのだ。何しろ、主役がこの店の主人である。客であるはずの彼らが動かないと、場が盛り上がらない。
一方、主役はというと、ちょうど裏手に当たる神社にいた。
新郎は、現代人では着慣れないはずの羽織袴を見事に着こなしていて、新婦は、中年の女性二人に着付けと化粧を手伝われて白無垢姿。地毛で結えてしまった高島田の髪を角隠しですっぽり覆い、後れ毛がめちゃくちゃ色っぽい。知らない人が見れば、素敵なお嫁さんの出来上がりだ。性別は男なのだが。
神田明神といえば、ここで挙げる結婚式に憧れを抱くマニアもいるほどの、縁結びの社である。さすがの神主も知りえなかったらしいが、現在新郎新婦をエスコートしている仲人の男は、なんとこの社に祭られている祭神、平将門本人であった。
美男美女の結婚式に、神社の参拝客たちも足を止め、その婚儀を見守っている。男性たちは羨ましげに、女性たちはうっとりと。
粛々として進む婚儀に参列した顔ぶれは、いずれもこの国の将来を動かすほどの実力者だ。新婦、土屋志之武の祖父、土屋雄一郎は、京都に屋敷を構える陰陽道の大家、土屋家の当主であるし、この婚儀を企画した首謀者にいたっては、日本を代表する陰陽道の代表的大家、土御門家の当主とその内縁の夫だ。居並ぶ顔ぶれも、それに列する実力者ばかりである。
が、なんといっても特筆すべきは、新婦自身がその両家から跡継ぎのオファーがかかっている、名実ともに持ち合わせた日本最強の陰陽師である点だろう。延々と千年ほど遡った歴史上の偉人、安倍晴明に並び立つ実力を持っているのだから、それも当然のことだ。
その新婦だが、今日は始終ぶすっと不機嫌そうな表情でいた。式にこそ、とりあえず従順に従っているものの、不本意であるのがよくわかる。
そんな新妻の表情に、新郎は楽しそうに時折笑っているのだが。
やがて式が終わり、明るい日差しの下へ出てきた一行は、神社拝殿の前に並び記念撮影をする。
なにしろ、白無垢はさすがに貸衣装なので、介添人を断れず、歩くところから写真を撮るために椅子に座るまで甲斐甲斐しく手伝われている。本人は性別詐称がバレるのではないかと、気が気ではないらしいが、新婦をよく知る出席者の中に、同じ心配をする者もない。
なにしろ、誰も間違いようのない、完璧な美男美女夫婦なのだから。
新郎新婦が隣り合って座らされて、しばらく立ち位置を揉め、写真撮影も滞りなく終わる。
後の心配事はと言えば、写真に将門が写っているかどうかだが、まぁ、問題あるまい。
新婦である志之武が、お色直しのため、麟子に半ば引きずられて更衣室に入っていく。羽織袴の着こなしなど板についたものである征士は、あっという間にタキシードに着替えて待合室にいた。
待合室では、戻ってきた征士を将門と松安が揃って出迎えた。前世にはなかった取り合わせに、征士は一瞬立ち止まり、思わず感動してしまう。
『どうした? 征士よ』
何故立ち止まってしまったのかわかっていない将門が、まるで生きている人間のようにソファに座ってこちらを見上げている。隣の松安も、不思議そうな顔を見せている。
二人揃ってわかっていないので、征士は黙って首を振った。
「何だよ、征士。気味が悪いな」
「別に。何でもありませんよ」
特に説明する義務もない。それに、これはきっと、説明してしまうと面白くない。
「それより。将門様、ご満足いただけましたか?」
『うむ。良きものを見せてもろうた。これで、心置きなく成仏できるぞ』
「あれ? 成仏なさるんですか?」
『ほほっ。さてのぅ』
自分で言っておきながら、将門は実に楽しそうに笑った。これだけ笑える人が、それでも成仏しないのは、何故なのか。もう300年近い不思議の一つだ。
『志之武はまだかの?』
「どうですかね? ドレスは初体験ですから」
『ほう。どれす、とな?』
まだカタカナ語にはなれない将門が、舌を噛みそうになりながら問い返し、征士はそんな将門に笑う。
隣で二人の会話を聞いている松安は、なぜかこの場だけ時代が昔にさかのぼっていることについていけず、ただ苦笑して見守るのみだ。
ふと、将門は突然真面目な顔をし、征士を見つめた。
『丁度良い機会じゃ。一つ、質問に答えよ』
「はい。なんでしょう?」
『そなた、志之助と志之武を、どう思うておるのじゃ』
え?
それは、征士も思ってもいなかった問いで、思わず問い返す。
松安も、きっと聞いてみたかったのだろう。そっぽを向いていた視線を、征士に戻してくる。
なにしろ、再会した時は志之助と志之武の存在がダブっているように見えたのに、いつの間にか志之武を志之武として見ているのだ。どこで切り替わったのか、見た目にはわからなかった。
「どう、って……?」
『志之武は、弱かろう? 志之助と違うて』
こんなことは、志之武の前では聞けぬからな、とぼやくように言い訳して、将門は征士に返答を求める。
征士はというと、将門の物言いに、一瞬きょとんとした表情を見せ、それから笑ってのけた。
「いやですよ、将門様。あのしのさん……志之武が、弱いように見えますか?」
『志之助と比べて、じゃ。今時参拝に来る若者どもに比べれば、余程強いことはわかっておる』
「いえいえ。志之助と比べても、ですよ。志之助は、虚勢をはることで自らを立たせていたところがありますから、見た目に反して脆かったんです。志之武は、志之助というベースに、現代っ子の強さと弱さと冷たさと現代哲学の力をプラスしてますからね。そばにいて、あの頃よりずっと安心です。唯一あるとすれば、実父に対する畏怖心くらいじゃないですか?」
驚いた表情でこちらを見ている将門と松安に、征士は苦笑を見せ、だから、と続ける。
「志之助と志之武、どちらが好きかといえば、甲乙付けがたいので何とも言えませんが、ただ、志之助は支えてやりたいと思っていたけれど、志之武とは共に生きたいと思います。一方的に寄りかかるのでなく、お互い自らの足で立ちながら、時に支えあって。しのさんが俺を必要としてくれているのと同じに、俺もしのさんを必要としているんです。彼がそばにいてくれるから、俺も生きていけると思う」
『共に、か』
「えぇ、共に。しのさんには内緒ですよ。恥ずかしいから」
口元に人差し指を立て、不器用にウインクしてみせる。それから、おもむろに立ち上がり、待合室のドアを開けた。
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