京夜叉

 彼は、ただ月を見上げていた。
 月に一度だけ見ることができる、どこも欠けるところのない、満月。
 それも、数年に一度という、全くの真丸だ。
 彼の傍らに寄り添う男が、その肩を抱き寄せた。
 男同士というのに嫌がりもせず、彼もまた男に寄りかかる。
 やがて、男が彼に囁いた。
「どうするんだ?」
「仕事の日だからね。仕方が無いことさ。今宵は満月。お前も俺も、月に一度化け物に返る夜だ」
「だから、化け物なんて言うなって」
 苦笑を浮かべて彼の言葉を咎め、それから男はそっと身を引いた。
 幅の狭い欄干に腰を降ろしていた彼も、危なげなく自分に重心を戻す。
 男のかしこまっている床に、足を下ろして立ち上がった。
 やってきたのは、これまた男だった。
 年老いた、とはいえ、まだ初老といってよい年代の、男。
 膝を突いた彼の家臣を見下ろし、彼に話しかける。
「頼むぞ、月読。そなただけが頼りじゃ。そなたの姉のためにも、な」
「はい、父上」
 かしこまって答える彼に、家臣である男がかすかに顔を上げた。
 だが、その顔を確認することもなく、そこで踏みとどまる。
 どうせ、見なくともその内心など手に取るようにわかるのだ。必要もない。
 さして要件があったわけでもなかったらしい。
 父と呼ばれた男は、そのままやってきた方とは反対の方へ歩み去って行った。
 見送って、ようやく男が再び立ち上がる。
「嫌な男」
「聞こえるよ」
「わかってる」
 本当に嫌そうに彼がそう言うので、男は苦笑を返してやった。

 二人は、実に仲の良い、幼馴染であった。
 最初は、悪戯友達で。次は喧嘩友達で。今は恋人に近い。
 何をするにも一緒だった。だから、お互いのことは手に取るようにわかる。
 相手が今何を感じて、何を思っているのか。
 わからないとすれば、互いの想いくらいだっただろうか。
 今の関係になる前は、お互いに、相手に知られないように必死になって隠していた。
 今では笑い話だ。まさか、両想いだったとは。

 彼の立場と男の立場は、表面的に見れば、上司と部下、主君と家臣だ。それ以上にはなりえない。
 恋人への昇格を可能にしたのは、紛れもなく、幼馴染であるというその一点だけである。
 だから、今でも、よくある恋人たちのような気の遣い方はしない。
 遠慮なく相手を罵るし、取っ組み合いの喧嘩もする。でも、すぐに仲直りして、お互いに求め合う。
 不思議な関係だ。
 男同士なんてそんなもんじゃない?とは、彼の言葉だった。

 今、彼には一つの役目が与えられている。
 人を殺めること。
 それが、彼の仕事だ。
 それは、軍人である以上、拒むべきものではないし、拒める立場でもない。
 だが、良い気がしないのもまた、事実であった。
 何にせよ、人殺しには違いない。
 それが、自分たちにとって必要なことであったとしても。

 しばらく月を見上げていた二人は、それが頂点に上った頃、ようやく動き出した。
 彼の身体と覆うひらひらとした薄いひれが、空を舞う。
 彼が、欄干を飛び降り、はるか下に落ちていく。
 男もまた、彼を追って欄干を飛び越えた。
 どこまで落ちていくのか、遥か下まで何も見えない。
 空を泳いで、二人は手を取りあった。
 握り合った手から、まばゆいばかりの光が生まれ、あっという間に二人を飲み込んでいく。

 目を開いたその目の前を、牛車が横切っていく。
 それは、ただただ広い、道の真中。両側を高い塀が続いているが、それも遠くに見える。
 満月が真南に浮かぶ、子の刻。
「行くぞ」
 そう、声を掛け、彼はその地を蹴った。
 ふわり、宙を舞う。
 男もまた、同じように地を蹴った。

 今宵は満月。
 力を得て堕落していく時の権力者を、鬼が狩りにやってくる夜。
 この国を、退廃から守るため、遥かかなたの神の国から、鬼が降りてくる。
 さぁ、今宵は誰を狩ろうか……


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